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幼少期から中学受験まで
1984年12月11日生まれです。
0歳~6歳は東京都日野市で過ごしました。
教育パパの元で育ち、物心ついた頃には公文に通っていました。多分5歳からです。
公文の入塾テスト?で、数を数えさせられて100まで数えて疲れたからやめたのをなぜか覚えています。
そして、帰り道に「約束通り、パトカーと救急車のミニカーを買ってね!」と母に言ったことも。
外で遊ぶのが大嫌いで図鑑を読むのと、先生と話すのと、年下の世話を焼くのが好きな幼稚園児でした。
イヤな子ですね(笑)
小学校に進むタイミングで鹿児島県鹿児島市に引っ越しました。父が家業を継ぐことになったからです。
タイミング的に、(84年+6歳=90年)バブル崩壊による不景気で決心したのではと推察しています。
小学校入学当初は鹿児島弁がわからずに苦労した覚えがあります。
小1のときに買ってもらったゲーム(スーパーマリオワールド)をやるのが何よりの楽しみでした。
小3のときに鹿児島県日置郡金峰町に引っ越しました。電車も通っていない超ド田舎です。
体格も身体能力も他の子と比べて圧倒的に劣っていました。
(のちに「自分は勉強を頑張るしかない」と思うきっかけを形成するコンプレックスの基となっています。)
小4のときに塾に通い始めました。隣の市にある小さな塾です。(父にとっての)唯一の選択肢でした。
バスで30分かけて通っていました。
勉強嫌いのゲーム好き、プロ野球関連と歴史関連と雑学系の本を読むのとクイズ番組を観るのが好きな小学生でした。
塾内で一番だったことに満足しており、それ以上の向上心が芽生えませんでした。
(この、「一番になったことでそれ以上の向上をしなくなる」は私によく起きる現象です。これが1回目。)
家での勉強をほとんどしなかったので、算理の苦手が克服できずじまいでした。
この頃から高校生まで、「お前は東大に行って弁護士になるんだ!」というのを父から何度も聞かされて育ちました。
「鹿児島出身です。」というと、高確率で「ラサール出身ですか?」と聞かれます。
しかし、私はラサールの受験が全く話題に上らない程度の中学受験生でした。
塾内で「井の中の蛙」であった私にとってラサールは遠く「雲の上の存在」でした。
父も私も塾の先生も、まったく意識したことはありません。
中高一貫校での6年間
それでも当時「ラサールの次。二番手。」といわれる私立中学・志學館には合格しました。
圧倒的に離された二番手校ですが、私にとっては第一志望でした。
女子には「ラサール」という選択肢はないので優秀な子が集まっていました。
男子はというと、多くの生徒が「ラサールに落ちたから仕方なく」その学校に通うことになった生徒でした。
ですので、「女子は軒並み優秀、男子はモチベーションが低い子がいる」という感じでした。
(したがって、早稲田大学の「東大落ちで仕方なくウチに進学する生徒はいらない。早稲田を第一志望とする生徒がほしい。」というスタンスはよく理解できます。)
とはいうものの、成績は120人中70番くらいで父にはいつも叱られていました。
叱るばかりで、「もっと勉強しろ!」以外の指示やアドバイスを受けたことはありません(苦笑)
中学では野球部にいましたが、高校では成績不振を理由に父から部活動を禁じられました。
高2のとき、転機が訪れます。
きっかけは、高1のときに父から成績が悪いのを理由に高校生クイズへの出場を許可されなかったことです。
誘ったチームメイトにも迷惑をかけました。
高1から高2に進級する春休みからゴールデンウイークにかけて一念発起し、猛勉強しました。
結果、文系クラスで一位になりました。
晴れて高2夏には高校生クイズへの出場が認められました。
とはいっても、クイズ研究会で活動しているわけでもなく、思い出づくりとしての出場でした。
が、○×クイズの一問目でラサールのクイズ研究会チームが全滅するという幸運に恵まれてまさかの県大会優勝、鹿児島県代表になりました。
思い出作りの延長として出場したはずの全国大会でもなぜか最後の早押しまで残り、全国準優勝してしまいました。
幸運すぎました。
高校生クイズに出場するという目的を果たしたことで勉強する意味が再び見いだせなくなりました。
文系クラスで一番になったことでそれ以上の向上心が芽生えなくなっていました。(2回目)
というわけで、あっけなく浪人することになります。
身に余る幸運は人をダメにしますね。
あ、ちなみに中学生・高校生のときは全く塾にいっていません。
浪人生時代
現役のときは東大しか受験しませんでした。
父も、「ああ、こりゃ浪人するな。」と思っていたのでしょう。
合格発表の日、本郷からホテルに戻ってすぐ父は私に「駿台福岡校」「代ゼミ福岡校」「河合塾福岡校」のパンフレットを手渡してきました。
準備良すぎだろう、父さん。(笑)
当時「世界史実況中継」が大好きだった私は、著者の青木先生がいる河合塾福岡校を選びました。
しかし、予備校の集団授業では成績は上がりませんでした。
(知識や解法は教えてくれても、「アウトプットに関する指導・サポート」がなかったことが原因だったと今の私にはわかりますが当時のわたしにはそんなことはわかりません。)
自分なりに勉強しているのに、なぜか成績が上がらない。
そんな状況に、みるみる私のモチベーションは低下していきます。
取り組みも甘くなっていました。そのままセンターに突入します。
大失敗。
8割を下回りました。
「ああ、これで東大は無理だ。足きりは無いとしても、さすがに受けさせてもらえない。終わった。父さんがっかりするだろうな。」という気持ちでした。
しかし、父は河合塾での三者面談の際、チューターに「この子には東大を受けさせます。私は信じてますので。」と発言しました。
一度死んだ人間が生き返ったらこんな気持ちで充実した生を過ごすんだろうな、というくらいやる気に満ち溢れた状態になりました。
そのときはじめて、「父がそう言っているから」ではなく「自分がそうしたいから」というモチベーションで東大対策を始めました。
必死で残された時間に何をすべきか考えました。
このとき、
・自己分析をして、「どの教科で何点とって合格するのか」「どうやってそれを実現するのか」を必死で考えたこと
・増進会(Z会)が発行していた小冊子「参考書の参考書」(各参考書の紹介や使い方が書いてあるものです)を熟読して本気で教材選びをしたこと
・代ゼミの、好きな先生の授業が好きなタイミングで受けられる「フレックスサテライン」に出会ってフル活用したことと
・本屋に行って参考書コーナーの本を片っ端から覗いてみたこと
が功を奏し、
代ゼミ富田先生の「東大英語」受講をきっかけに文型をとりはじめ、(東大受験生が入試1か月前から、です。)
河合塾青木先生に東大世界史の論述でヤマを当ててもらい、
「日本史100題」「世界史100題」で圧倒的知識をつけ、
「東大古典30年」を一気に解いてパターンを叩き込み、
1か月では伸びなさそうな数学と現代文はほとんど放置して東大を受験し、
合格しました。
周囲は皆、祝福というより驚くか不思議そうにしていました(笑)
大学生時代
身に余る幸運が人をダメにする(2回目)状態に陥り、夢・目標もなく過ごしておりました。
幸い、友人に恵まれました。
というのも、仲良くなった友人たちは「自ら夢・目標を設定して過ごす」「そうでない人間(=私)にときとして辛辣な態度をとる」タイプでした。
そこで、一念発起して目標について考えることになります。
「自分がこの人たち(周囲の東大生)に勝っている部分はなんだろう。その部分で勝負しなくては。」と考えました。
中高時代から交友関係が広く、大学時代も60人規模のサークルの団長を務めていた私は、
「対個人の提案能力・コミュニケーション能力ならこの人たちに勝てるだろう。
というか、この人たちはその土俵には来ないだろう。」
と考えてファイナンシャルプランナー(FP)の勉強に打ち込み、個人資産形成アドバイスのプロを目指すことにしました。(今思うと短絡的な浅い分析ですが。)
生憎、東大経済学部には当時ファイナンシャルプランニングの授業が皆無だったため独学で勉強することになります。
大学在学中に最高位であるCFPの資格審査試験に6科目すべて合格しました。
その過程で、金融機関に雇われているFPではなく、独立系のFPに憧れることになります。
また、「世間は東大生である私に、『がり勉』のレッテルを貼るだろう。それを打ち消してくれる会社は…」「あった、野村證券。」
「ここでリテールを希望して、そこで努力すれば、『知識』では一番になれるだろう。
他の東大生はまず野村のリテールなんて希望しないはずだし。
で、『東大生』カテゴリのなかでは根性やガッツの面で一番になれるだろう。」
と考えて、野村証券を第一志望に、証券・銀行を志望して就活しました。
そして、野村證券に入社することになりました。
野村證券時代
希望通り、支店に配属されました。
入社する年にサブプライムローン問題が発覚、リーマンショック発生というイベントを経験して、とても苦労しました。
育成担当の先輩社員からの指導の下、1日200件を目標に飛び込み営業、1日1口座の開設を目標に設定されて只々走り回っていました。
「口座だけ開設して何になるんだろう?」と思いながらも、超体育会系の会社で疑問を呈するわけにもいかず、繰り返していました。
そして、1年目の年度末、
プライドを捨てて毎日頭を下げてなんとか140件ほどの口座を開設した私に支店長は
「全然収益が上がっていない(=株や投資信託、債券を売っておらず手数料が稼げていない)じゃないか!もう1年やり直し!」
と言いました。
「えっ、収益?先輩からは口座開設のことしか言われてなかったからそこだけ追求したよ?なぜ評価されない?ってまあ、普通に考えたら口座開設するより収益だよね。うん。私が悪かったです。」と考え、
2年目は自己責任で口座開設そのものよりも収益をあげることを念頭において動きました。
年商数億円の会社にターゲットを絞って毎日5件ずつ巻紙に筆ペンでアポイント依頼文を書いて発送し、電話でアポイント依頼をしました。
それより大きい規模だと社長に会うまでの障壁が高く、それより小さい規模だと資産運用どころではないだろうと考えたからです。
この作戦は功を奏し、良いお客様方との出会い、そして為替相場の読みがあたって完全に信頼を得るという幸運に恵まれて5月には2日で100万円近くの収益(=手数料収入)をあげるまでになっていました。
ここで、身に余る幸運が人をだめにする(3回目)、(一番ではないものの)やりきった感があり向上心が芽生えなくなる(3回目)の状態になります。
3年目以降は、証券アナリストの資格もとって「支店内の知恵袋」の地位を確立します。
CFPも証券アナリストも、当時、私のいた支店内の私以外に誰も持っていない資格でした。
そこで、支店内の「投資銀行部門」に配属となって県内の上場企業や上場を目指す企業の担当をすることになりました。
当時私が担当していた企業が、現在いくつも上場に成功しています。
また、当時、もう1つのめりこんでいたことがあります。
それは、後輩たちに「本社に行きたかったら英語と証券アナリストを勉強しろよ!」と声をかけて勉強法をアドバイスすることと資格の勉強を教えること(問題を解説すること)です。
理由は判りませんが、とても楽しかったのです。私に習うと合格率100%でした。
そして、あるとき、飲み会の席で、隣の課の課長が皆の前で、私に「諏訪はさ~、ここにいるよりも家庭教師とかをやったほうがいいんじゃないのか?」と言ってきました。
「(なるほど~!)」と納得しました。
当時、独立系のFPでの成功例はまだ少なく、FP以外で何か独立の道はないものかと考えていた私にとって、「教えることが大好き」ということと「塾で独立する」ということが初めて結び付いた瞬間の喜びはとても大きなものでした。
フランチャイズ個別指導塾オーナー時代
ということで、「塾で独立する」を模索することになります。
しかしながら、学生時代に塾講師をやってはいたものの一講師でありノウハウは0。
でも、教えたい。
自分が輝くのは、この仕事な気がする。
モチベーションと勉強のやり方を正しく指導すれば生徒の人生を大きく変えられるはず。
自分の戦略で動けないことに嫌気がさしていたこともあり、「雇われる」の選択肢はない。
(←超アホですよね。最初はどこかで修行すればいいのに。)
というわけで、「FCだ!」となり当時FC事業を始めて間もない某FCに加盟することになります。
そのフランチャイザーを選んだ理由は、運営母体の知名度と発足当初のFCにありがちな裁量の大きさ、そしてまだ好立地が残っているだろうという考え方です。
そして、「自分のスペック的に、FCのなかでだったら一番を目指せるだろう。一番になったら次のステージに出会えるはず。今までもそうだったから。」という打算もありました。
そして、さすがに3回経験しているので、「加盟店のなかで一位になったら辞めたくなるんだろうな~」と考えていました。
東京都江東区で開校。
2012年10月のことです。
当初、
・小中学生は躾からやらないといけないこと
・私が高校受験を経験していないため、中学と高校の学習内容の境目がわからなかったこと
・東京都立高校のことや都立高校入試の知識がなかったこと
などに苦労をしました。
特に、10月開校からすぐ、12月には中3生の三者面談で進路指導が必要でしたので必死に高校受験関係の勉強をしました。
大学受験においても、特に中堅~下位の大学に関しては「情報」といえるものをあまり持っていなかったので、必要に応じて調べながらの進路指導を行いました。
科目指導においても、はじめはどこまでさかのぼって教えるかなど戸惑いが大きく、苦しみました。
試行錯誤を繰り返してスキルアップをしていき、初年度が終わる頃には教室長らしくなっていたと思います。
中学校から高校進学をあきらめるよう言われた生徒をつきっきりの指導で3か月で高校合格に導くなどの
結果を残すことができました。
あらゆる手をつくして10年分の過去問を手にいれ、パターンを何とか叩き込みました。
(その子は高校進学後も塾を続けてくれて、高校では生徒会長を務めるまでに成長しました。)
お母様からとても感謝され、一時期はお住いのマンションの生徒が10名を超えていました。
他にもD判定からの都立高校合格など逆転合格をいくつか実現し、達成感とやりがいを感じることができました。
開校二年度目以降、順調に生徒数が増加していきました。
私自身、教える仕事を心の底から楽しんでいました。
特に、自分自身も変わるきっかけとなった大学受験指導に力が入りました。
また、都立高校入試にはごく限られたパターンしかないことに気づいていからは都立高校入試対策の指導にも力を入れました。
2014年12月、生徒数が80名に差し掛かって教室が物理的なキャパの限界を迎えます。
そして、「このまま80名の教室をやっていても一位にはなれない」と考えて移転を決意します。
移転し、2教室目を開校して「企業」としても順調に見えたのですが社内でのゴタゴタがあり、私の自教室へのこだわりの強さもあってオーナー兼教室長をやっている1教室以外は「成功」とは言えない状況でした。
(この「ゴタゴタ」に関してはシャレにならなさ過ぎて書けません。直接お会いしたときであればお話しします。笑えるくらい壮絶ですよ。)
そして、
・大学受験生と都立高校受験生中心の運営による高単価化が功を奏して2017年1月に教室長を務める教室が売上額で全国1位になったこと。
・別看板の直営業態の教室数が増えてきたこと。
・個人の裁量が小さくなってきたこと。
などなどの理由によりFCからの脱退を決意することとなります。
大学受験指導を全国どこでも受けられる世の中にしたい
これまでの経験を活かし、全国各地の「高校部に力をいれたい、大学受験を通して生徒さんの人生を変えたい」そんな塾さんの力になりたいです。
私の得意なこと。かつ、やりたいこと。
・大学受験向け教材に関するマニアックな知識と緻密な傾向分析を活かして、生徒一人一人の状況に即して計画を作成・改訂すること。
・大学生講師に生徒との面談スキルを向上させる研修をすること。(コーチングスキルアップ研修)
・各教科の指導法をレクチャーすること。(教科指導力アップ研修)
・モチベーションアップにつながるコミュニケーションスキルをレクチャーすること。(コーチング+雑談力研修)
・高校生のモチベーションを上げるために、学部・学科選びや職業・就職活動、人生と時間・お金の使いかた・考え方に関する話をすること。
・都立高校入試に強い塾になるためのノウハウを伝えること。
これらを活かして、ご縁をいただいた塾さんに貢献する活動をしております。
最後までお読みくださりありがとうございます。
よろしければご感想をお待ちしております。